追悼について

アメリカ合衆国オバマ大統領は、米国が原爆を投下した広島に行き犠牲者を「追悼」するという。「追悼」とはなにか、どういう行為を言うのか。

「追悼」とは、「死者をしのんで、いたみ悲しむこと」を言う。この「しのぶ」というのは「過ぎ去ったこと、離れている人のことなどをひそかに思い慕う。恋したう。」ということだそうだ。「いたみ悲しむこと」というのは、心が痛く悲しいことだそうだ。

   したがって、追悼とは過ぎ去り亡くなった人を秘かに思いしたい恋うことをいうのだろう。

    私は隣人や親たちが癌で亡くなったときに追悼した。

    私は隣人や親たちの《死そのもの》に対して反省も責任もない。今後隣人や親たちが死なないように不死の誓いを立てない。

    ところで大統領というのは国家機関だ。その職・地位にある人間の行為は、国家に帰属する。

    その人の悲しみ、他者を思い慕う行為は国家行為か。とすれば国家が悲しむのだろう。

    そうか、米国は悲しんでくれるのか。

     悲しんでくれるなら自らの行為に対して悲しめ。そして帝国主義間の競争闘争を恥じよ。植民地主義を恥じよ。そして反省せよ。不戦の誓い、そしていまいくさをやめよ。そういう国家行為を見たい。帝国主義のいくさをやめるという決意・国家意思と行為を見たい。そうすれば追悼にも意味があろう。しかし今のまま悲しんでもなにも心には響かない。

                                                                                                                2016・5・11