『共産党、政党助成金を活かし飛躍を 』 (村岡到・ロゴス社刊)   に関連して

状況は変わる。日露関係、日中関係、東アジア情勢の変化が出てきている。
集団的自衛権反対の立場を取った人たちはどこにいるのか。声は聞こえない。
この時期に主体の変化が必要だ。そこで今日は『共産党政党助成金を活かし飛躍を 』という本を取り上げる。

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『共産党、政党助成金を活かし飛躍を』村岡到 著 ロゴス


8月22日の『毎日新聞』一面最下段の「本」の広告欄で面白い本を見つけた。
共産党政党助成金を活かし飛躍を 』 (村岡到著・ロゴス社刊)という本だ。
外出先に置いてあった『毎日新聞』を偶々手に取りそこでその広告を見て本書の存在を初めて知った。未だこの本を手にしていない。


従って予めお断りしておくが、以下の小文は【『共産党政党助成金を活かし飛躍を 』 村岡到】の本の内容の、書評感想ではない。本書【タイトル】に関連する雑感に過ぎない。現時点で私はこの本のタイトル、広告文とロゴス社の村岡の新著の「まえがき」を読んだに過ぎない。後日、同書を読んだ後で紹介とコメントを(私に能力があれば)どこかにきちんと書こうと思うが多分能力がないから書けないだろう。それにも拘らず本書の未読の段階で小文を載せる趣旨は本書はタイトルだけからみても重要だろうと思われるし自分の現段階の考えと村岡到の考えがごちゃ混ぜになって区別がつかなくなるのを防ぎ現時点での私の感想を事前にまとめておくという点にある。そして著者村岡到の他のリーフレットや本その他活動を多少知っている本ブログの筆者としては、この本のタイトルを今日のブログのタイトルにして論争が起こることを期待しておく。


日本共産党政党助成金を受け取っていない。その理由は共産党自身が語っている。そして共産党執行部はそれを誇りに思っている。詳細は調べられたい。
その日本共産党に対して村岡は本書で〈「共産党政党助成金を」(受領しそれを)「活かし飛躍を」せよ(したらどうだろう)〉と日本共産党に対して呼び掛けている。

 


日本共産党が「政党助成金を権利として受領すべきだ」という主張は重要だと思う。(但し村岡が「権利」として受領せよ、と云っているのか否かは前述の理由で本書を手にしてない時点で私は知らない。(拙文公開時点でも知らない。))
しかし共産党は日本の国法上、政党助成金を権利として受領できる。つまり共産党政党助成金の受領権がある。だが共産党は自身の考えでその受領を拒否している。


問題は二点ある。
政党助成金制度が日本国憲法上合憲か、
⑵合憲だとしてそれは共産主義運動、共産主義者の「権利」行使として政治的に正当か。勤労者、被支配的な日本国民、さらに先進的民主主義の利益に合致するか、
である。

 


⑴まず政党助成金制度そのもの合憲性についてだが、この制度につき共産党憲法19条の思想信条の自由を侵害すると主張している。①国家が政党(思想信条の団体)に政党助成金の交付により政治資金を交付し財政的支援を行うことは他党派党員支持者(有権者)からすれば自分の思想信条に反する政党に対して国家資金の援助がなされるものでその資金交付を受ける政党を国家が有利に扱うものでそれは個人の思想を侵害する、②他方国家が資金援助することで政党に介入することになるという論理だろう。
はたしてそうだろうか。憲法89条で出てくる論点と類似の問題がある。本質的に違うのは政党の憲法上の位置づけだ。まず日本国憲法上の政党の位置づけを検討する必要がある。政党は元々私的任意団体だと考えられる。その私的任意団体が国家という大結社(非任意団体)の意思決定に参与する点に政治過程での特徴がある必要があると思われる。近代の常識的原理からは個人は国家という非任意団体から逃れることはできない。個人的には逃げ出したくても法的にはできない。法的にはこの状況で政党を考えざるを得ない(尤も私のような夢想的な人間は国家が存在しない社会を考え夢想するのだが。(余談だ))。国家を前提とせざるを得ない状況で政党を検討すると、徹底的に個人中心の憲法論を構築するなら政党は個人主義の原理に反するから政治過程に出てくること自体がおかしく不当で政党は政治過程の中に存在すべきでないと考えることは可能だろう。とすると政党は議会の外では憲法21条の結社の自由の下で存在活動し院内団体としては事実上の存在だということになる。日本共産党はこの見解に立つのだろうか。そうでなければどのような政党論に立つのだろうか。
私は個人的には日本国憲法21条1項から政党(私的任意団体)としての結成活動が保障され、かつその存在活動が議会制(41条以下)を支える重要な機能を持っていると考えるのが妥当だと思う。ゆえに現行憲法の下で政党助成金制度は合憲であると考える。その上で制度論としてどういう選挙制度を構築するかが問題で現行の小選挙区制度自体が憲法が予定したものか検討する必要があると思われる。結論先取りだが、国会の広範な裁量をみとめる現行憲法からは小選挙区制度自体が違憲だと云うことは難しいと考える。
これらの憲法上の論点はもっと論証を要する。なぜなら私人の集団である政党(私的結社)が国家という大結社にどう関与するのかという検討が必要だからだ。現行日本国憲法の下で政党に関する明文がない以上丁寧な検討が必要だ。今の私の能力では困難だ。


⑵次に問題は日本共産党政党助成金の申請をして政党助成金を「権利」として受領することの政治的社会的意味だ。
もし政党助成金を受領するとなると、これは日本共産党の今までの主張と180度違う。日本共産党は戦前の天皇制・治安維持法それ以前の法律により徹底的に弾圧され党員支持者は生命人生そのものを破壊されてきた。徳田球一志賀義雄宮本顕治らの名前を象徴的に挙げるまでもなく予防拘禁所や刑務所で天皇制護持=反共主義大東亜戦争遂行政策のため拘束され殺された人たちを数え上げることはできないことを私たちは知っている。そして日本共産党は戦後も支配層の弾圧にさらされた。だから政治資金援助ごときで国家に介入されたくないと共産党(員)が直感的に感じるのは当然だろう。独占資本の政府自民党とそれがコントロールする国家が甘くないというのは当然だろう。それにカネという「実利」を取る為に今までの主張を変えたと評価され別の総攻撃を受けるだろう。
また日本共産党コミンテルン支部として作られ世界共産主義運動の担い手として存在していた戦前の歴史や戦後一時期の歴史から考えてもその思考様式から離れることは簡単でないだろう。しかし綱領ではもはやプロレタリア国際主義とマルクスレーニン主義の旗を放棄してしまい、プロレタリアート独裁とういう移行過程を採るという文言や活動実体はないだろう。現時点でもうとっくに社会主義ソ連邦(ソ同盟)は欺瞞擬制でも存在しない。中国は覇権的道を選ぼうとしていると云っても言い過ぎでないだろう。このなかでいっそのこと日本共産党は自らの手で、日本政治の中に【完全にビルトイン】されるのはどうだろう。今までの「マルクス主義」の理解と実践から労働者階級に属する個人の擁護を徹底する党派、最終的に現行憲法体制を発展させる道に替わるという道もある。そのためには共産党が個人(indevisual)という概念を採り入れ権力というモノを考えるのが今また必要かもしれない。労働者階級の個人の自立自律の道を徹底する。


「左翼」が、というより人間が、資本主義システムを終了させ新しい未来、人間と人間の間で労働力の「搾取」という野蛮な関係性を終わらせる未来こそ、目指すべきことであり、現在の帝国主義とその運営者の非道を憤り憎むあまりブルジョア階級の独裁を憎むあまりプロレタリアート独裁を対置するのは(もちろん現在日本共産党プロレタリアート独裁を採用していないが)凶暴・傲慢に対して対置すべきものが違っているように思われる。狂暴には人類の愛を対置しよう。そして最後に各個人が「本願ぼこり(誇り)」(愚禿親鸞)にならないことを願う。ここで取り上げた本の著者は当然だし自分はもっとだと願っている、願われていると信ずる。